The Stories of Mine      

掛け違えた釦

01 02 03 04 05 06 07 08 09 10
【四】

四月四日。一学期開始の前日出勤だ。平常どおりの出勤となる。
中山は八時過ぎには学校に着き、打ち合わせに使う
プリントを印刷し、配っていた。
教務部に所属する彼は教務主任から出された資料を
増刷りして配っているのだった。
四・五月の行事予定表、本日の流れ、明日の始業式・入学式の要項・・・
部活動を一生懸命やるためには、それ以外の仕事
(というより、教師本来の仕事、というべきか)も
きちんとできていなければならない。
普段やるべきことを責任もって
やっているからこそ、部活動関連で何かを諮るとき、
周りは前向きに考えてくれる。これは大西の教えだった。
中には勘違いをして、部活でよい成績を収めているのだから、
普段の公務を減らしてもらおうなどと思っている輩がいる。
そんなやつは大抵、職員室の内外で、生徒にすら陰口をたたかれ嫌われていて、
しかもそのことに気づきもしない。
「ただの部活バカにはなるなよ。」
大西は言ったものだった。

実際、北沢も生活指導部長としてみなに頼られる存在だし、
運動部のもう一つの雄、サッカー部の顧問・遠藤も
理科の授業にかけては市内でも一目置かれる存在で、
学習指導部の中心となっている。教務主任の鈴木も昔は
剣道部を関東大会まで連れて行っている。
さすがに教務主任ともなると忙しく、部活動をメインで見ることはできないので、
今は剣道部の副顧問をしている。

もちろん女性陣も負けてはいない。
保健指導部長の金沢は女子バレーボール部を毎年県の
ベスト4以上に持って行っているし、
卓球部を今年県大会決勝まで連れて行ったのは英語科主任の中島だ。
こういう環境なので、ここ数年、宮島平中学校は部活天国と呼ばれていた。

もちろん昨日今日でこのような状況が生み出されたわけではなく、
先代の後藤校長がかなりの有力者で、
今がんばっている顧問の殆どは後藤校長が他から引っ張ったという話もある。
中山を採用したのも後藤校長だった。
今の校長もその路線を引き継ぎ、部活動に大変理解を示してくれている。
いまどき珍しいことに、生徒の自発的な部活動の加入率も八割を超えている。
地域的にも昔からある落ち着いた住宅街で、
保護者の学校や部活に対する理解度は非常に高い。
部活ごとの保護者会、講演会も非常に熱心だ。
いろいろな意味で中山は幸せな環境にあると言えた。

午前中は職員会議―指導部会議―学年会議の順で進んだ。
教科研究会などで他校の様子を聞くと、
会議の開始時間などがルーズで困るという話を良く聞くが、
中山の職場にはそんな雰囲気はなかった。
会議にはそれぞれ予定時間が設定され、
議題についても事前に良く練られており、
徒に時間が延びることは殆どなかった。
「それが普通だと思うなよ。転勤したらびっくりするぜ。」
と、他校の同期に言われたものだった。
今日も時間通りに会議は進み、正午には解散となった。
今年、中山は三年担任なので、今まで以上に忙しくなることは間違いなかった。
近くの中華料理屋が持ってきた出前のあんかけヤキソバを食べ終わると
中山はつぶやいた。
「さーて、今年も一丁がんばりますか。」
鍵束をつかみ、楽譜のコピーを抱えて音楽準備室へと向かった。

準備室前では気の早い生徒が二・三人既に待っていた。
「こんにちはー!」
元気な声が響く。瞳の姿はない。少しほっとする。
「先生、部室の鍵ー。」
と新二年生。
「ん?何だって?」
と、中山が低めの声で聞き返す。
「あっ、えーと・・・・・・部室の鍵をください!」
「よーし正解。ホイ、鍵だ。部室と、あと、練習室の窓も開けといてくれるか。」
「わかりました!」
元気に走っていく生徒たちを見ながら、自分の中学時代を振り返る。
練習開始時間の一時間以上前に学校に着き、
大西のもとに鍵を借りに行った自分。
誰よりも早く部室に入ることを毎日の目標にしていた自分を思い出した。
準備室の自分の机に向かい、今日配る楽譜を配りやすく整理する。
練習開始時間の午後一時の五分前に部長が呼びに来た。
「先生、集合しました。お願いします。」
中山は頷いて席を立ち、練習室に向かう。
この学校には音楽室の他に、小ホールのような大き目の第二音楽室があり、
そこを部では練習室と呼んでいるのだ。防音・冷暖房完備の部屋で、
市内でも他には例を見ない。他校の顧問からは良くうらやましがられる。
中山にとっては別段普通の音楽室や教室でも指導には十分なのだが、
せっかくあるのだからとありがたく使わせてもらっていたのだった。

中山が部屋に入ると、生徒の話し声が止み、緊張した空気が流れる。
海野恵の声が響く。
「気をつけ!礼!」
 そして全員の声。
「お願いします!」
練習のはじめは必ず全員集合。中山からの本日の練習に関する講和で
始めることにしている。会議などで抜けられない時は
部長が代わりに練習内容を伝達することもある。
部長の海野恵は男子にも一目おかれる存在で、
彼女がみなの前に立つとやはりおしゃべりは止む。
上に立つものにはそれなりの態度を身につけさせる指導をしている。
各パートのリーダーもそれぞれに存在感があり、
回りからも認められているのだった。

中山からまず今年度のスタートに際しての心構えが伝えられる。
緊張感の漂う中、皆熱心に耳を傾けていた。
「そういうわけで、今年の目標は『心に響く音作り』だ。
聞いてくれる人が感動の涙を流してくれるような、
そんな音が作れるといいな。コンクールの結果はおまけみたいなもんだ。
まあ、そんな音が作れれば、結果は必ずついてくるよ。
このメンバーならできる、俺はそう思ってる。一緒にがんばろう!」
「はいっ!」
「よし。まずは明日の入学式の式典演奏と新入生歓迎演奏だな。
この後パートリーダーにパート練習の内容を伝えておくから、
各パート、時間をうまく使って練習しておけ。
あと、瞳!今日の基礎合奏からコンサートマスターの仕事始めだ。
頼むぞ!」
「はいっ!」
いつもの笑顔だ。変な心配は必要ないな。
「じゃあパートリーダーを残して解散!」
残ったパートリーダーに中山は今日の予定表を手渡す。
こういったシステムについては大西に学ぶところが多いが、
自分自身でも試行錯誤を繰り返してきている。
「パート練は二時間。途中休憩は十分を目安に。
曲ごとの配分はお前たちに任せる。
まあ、ほぼ出来上がっている内容ではあるけど、
より精度を高めておくということだな。手を抜くなよ!
あ、瞳、お前はパート錬終了十分前に練習室に来い。
デビュー前の打ち合わせだ。じゃあみんな、頼んだぞ。」
パートリーダーがそれぞれの部屋に散る。瞳が残った。
「あのう、先生……」
うつむいている。
「ん?何だ?」
何かを言いかけて、やめる。
「何でもないんです。失礼します。」
顔を上げた瞳のその頬が少し紅潮している。
整った顔立ちがよけいに美しく見えた。
練習室を出るその後姿を見つめながら、
心から追いやっていた不安がまた頭をもたげてくるのを
中山は感じていた。

パート練習が始まると中山は各パートの様子を見て回る。
パートリーダーに注意や指示を入れる事もある。
逆に意見を求められたり、質問されたりすることもあるのだ。
どのパートも熱心に練習していた。オーボエの部屋を覗く。
瞳はこちらを振り向くことなく、熱心に後輩を指導していた。
またほっとする。ほっとしてから、瞳の行動一つ一つに
いちいち不安になったりほっとしたりしている自分に疑問を感じた。
そして心の奥底から現れかけているものを押し戻し、
心に絡みつきかけているものを振り払う。俺が動揺してどうする。
泰然自若だ。大西の言葉を思い出す。慎重に、慎重に、
そして厳しく。教師としての一線を守り通すのだ。

パート練習終了十分前、瞳が練習室に来た。
いつもと変わらぬ様子だった。
「じゃあ、基礎合奏のチェックポイントだが……」
解説が書かれたコピーを渡し、説明を始める。
瞳はメモを取りながら真剣に聞いていた。
ロングトーン、ハーモニー練習、音型練習、リズム練習など、
中山自身で工夫をした内容のチェックすべき店を瞳に伝え終える頃、
皆が集合した。
「よし、じゃあ瞳、頼む。」
ハーモニートレーナーがテンポを刻み、基本となる音をアンプから響かせる。
もちろん各パートでチューニングは済ませて来ているはずだが、
この音を聞きながら各自微調整していく。これだけ訓練されたメンバーだと、
その豊かな音は自然に基準となる音程に収斂していく。
基礎合奏は問題なく進み、瞳は十分にその責任を果たし得ることを証明した。
中山に口を挟む余地はなかった。
「では先生、お願いします。」
中山に指揮棒を渡すときの瞳は至極誇らしげだった。
中山はごく自然にその表情を受け止めた。
そうするのが良いと思ったからだった。
「よし、じゃあ『主よ、人の望みの喜びよ』からだ。まず頭から一回通してみよう。」
合奏も大過なく終了し、この日の練習は終わった。
 楽器を片付け終えた生徒たちが集合すると、反省会が始まる。
最近これが形骸化してきた気がして、工夫をしなければ、と中山は考えていた。
「では明日の朝、七時四十分集合完了だ。遅れるなよ。」
「気をつけ!礼!」
「ありがとうございました!」
部長以下、パートリーダーたちが残り、戸締り確認をする。
各リーダーより異常なしの声が響き、解散となった。
最後に自身で消灯を確認し、練習室の鍵を閉める。
消灯前にふと指揮台を見ると指揮棒が見えない。
(あれ?どうしたかな。)指揮台の周りを探して回るが見当たらない。
どうしたのだろう。おかしいとは思いつつも、
そのまま消灯して鍵を閉め、職員室に戻った。

生徒たちの帰り道。
「あれ?瞳、何それ、指揮棒?」
クラリネットのパートリーダー、佐藤智恵が瞳の鞄から
少しはみ出している白い棒を見つけて言った。
瞳は飛び出した棒を鞄に押し込み、
「リコーダーのお掃除棒よ。」
と言って笑った。
「なあんだ、そうか。」
と智恵も笑って答え、会話は別の話題へと移っていった。

四月五日の朝、七時三十五分に部長は中山を呼びに来た。
朝練習も滞りなく済み、この日の午前中は始業式とその後の
ホームルームで終了した。この日は午後入学式があるため、
一般の生徒の部活動は一旦下校してから再登校で行われる。
しかし、入学式に出席する生徒会役員、コーラス部員、吹奏楽部員は
弁当持ちだ。昼食をとると、すぐに午後の準備に取り掛かった。

吹奏楽部員は自分たちの準備の前に、会場となる体育館や
その周りの清掃をする。それが終わってやっと自分たちの準備だ。
準備が整い、入学式に参加する生徒もすべて配置についた。
奏楽の開始である。バッハの「主よ、人の望みの喜びよ」と
パッフェルベルの「カノン」を繰り返し演奏してゆく。
体育館に荘厳な空気が流れ、少しずつ増えていく新入生たちも緊張の面持ちだ。
新入生が揃い、開式の時間となった。

教頭の司会で式は進む。校長の訓示、生徒会長の歓迎の言葉、
新入生の誓いの言葉などのプログラムが静かな雰囲気の中
流れるように進んでいった。
そして新入生の歓迎演奏である。今回の選曲は、
一曲目定期演奏会で披露したドビュッシーの「海」、
二曲目は最近はやりの歌謡曲のメドレーだった。
一曲目では中学生のレベルの高さを見せつけ、二曲目で親近感を得る。
このやり方は毎年功を奏していた。
入部希望者は年々増える一方である。
一曲目の演奏に入る前、中山の持つ指揮棒が昨日までのそれと違うことに
何人かの生徒は気づいていた。
その中にはクラリネットの智恵もいた。智恵は思わず瞳を見たが、
瞳の表情からは何も読み取れなかった。
入学式の終了後、智恵は中山に尋ねた。
「先生、指揮棒、変えられたんですか?」
「おう、気がついたか。昨日まで使ってたのが見当たらなくてな。
似たやつを家から持ってきたんだよ。
結構長いこと使ってたから愛着あったんだけどな。
かなり探したんだが見つからなかったんだ。」
「そうでしたか……。」
智恵は昨日の帰りのことを思い出したが、確信があるわけではなかったので、
それ以上はそこではこのことに触れなかった。
会場の片付け中にそれとなく瞳に聞いてみた。
「ねえ、瞳。先生の指揮棒、替わってたのに気がついた?」
「そう?気がつかなかったけど。」
そう答えた瞳の表情はいつもとまったく変わらないものだったので、
智恵はそれ以上詮索するのをやめた。
そうよね。だからどうだって言う話よね。
それきり智恵がそのことを思い出すことはなかった。

続きはこちら