The Stories of Mine      

掛け違えた釦

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プロローグ 杉並の一角 楽器店

東京、杉並の閑静な住宅地に小さな楽器店がある。
店員は三人いて、常に誰か一人が店に出ている。
店は小さいが、取り扱っている楽器の幅は広く、
楽器修理の固定客も多いので割と繁盛していた。
平日の昼間はいかにもといった雰囲気の若者が
ギターを背負ってやってきて、店員とおしゃべりをしたり、
試奏をしてみたりする。土日になると区内の学校の吹奏楽部員が
入れ代わり立ち代りやって来て、
楽器の手入れ用の小物や消耗品を買っていく。
奥の部屋がリペア(修理)ルームになっていて、
簡単な楽器修理も受け付けている。
この春の時期は、演奏会を控えている学校が多く、
楽器修理は忙しくなるのだ。
今も中学生が一人、リペアルームに
クラリネットを持ち込んできているところだ。
「今日はどうしたの?」
常連の中学生らしい女の子だ。
「なんか下のB♭から下の音がちゃんと出ないんですぅ。」
「じゃあみてみようか。うーん、下のほうのキーのタンポが
だいぶくたびれてるねえ。」
修理担当がそういいながらキーを微妙に押したり、
管の穴のあたりを掃除したりして、うん、と頷き、
楽器を女の子に返した。
「吹いてごらん。」
ドシラソファミレドーシーラーソーファーと一気に
そこまで吹き降ろすと、女の子は顔をほころばせて、
「ありがとう!中山さん!」
と元気よく言った。
「今日は料金は要らないからね。でもね、とりあえずの修理だから、
一度きちんとタンポ換えに出した方がいいよ。
あと、リードはちゃんと選んでおきなさいね。」
「はーい!じゃあ、失礼します。」
「はい、さようなら。」
そう言って中学生を送り出したリペアスタッフ、
彼がこの物語の主人公である。

中山正道、四十五歳。

この仕事についてもう十年になるだろうか。
彼は今地元の中学生や高校生の持ち込んでくる
木管楽器のリペアを担当している。
もう一人、金管楽器の担当がいる。
中山は実はかつて中学校で教鞭をとり、吹奏楽部顧問として
部を全国大会まで連れて行ったことのある実力者だった。
しかし十数年前、訳あって学校を退職し、
いくつか仕事を変えてから結局今の仕事に落ち着いたのだった。

訳あって、と書いた。

彼にその訳を聞いても、困ったように笑って
「いや、ちょっとね・・・・・・」と多くを語りはしない。
ただ時折見せる遠い目の向こうに何か底知れぬ懐かしさと
悲しみを感じ取れるのだった。
彼はぽつりと言った。
「掛け違えたんだよ、釦をね・・・・・・」

第一章 瞳
【一】

指揮棒が幾何学的な模様を描き、
幾重にも重なった音がホールを満たす。
様々な角度から降り注ぐ光もまぶしい。
最高潮を迎え、心地よい残響とともに全ての演目が終わる。
続く拍手の渦。そしてアンコール。
アンコールのサンバが終わり、メンバー全員が起立し
鳴り止まぬ拍手の中すがすがしい笑顔と心地よい涙にまみれた
生徒たちを指揮者の音楽教師、中山正道は優しい目で見つめていた。
今日は中山の勤める市立宮島平中学校の第三回定期演奏会なのだった。
初の全国大会出場記念演奏会とあって、
会場の市民会館ホールは大入り満員、
立ち見も出るほどの盛り上がりを見せていた。

全てのプログラムを終え、観客が退場すると、
大急ぎで会場の片付けに入る。
日ごろの指導の賜物で、あっという間に会場は現状復帰し、
何もなくなったステージに全員集合、ミーティングが始まった。
生徒たちが緊張の面持ちで見つめる中、
中山は話を始めた。
「今日の演奏だが・・・・・・」
少し間をおく。生徒たちにさらに緊張が走る。
「なかなか良かったぞ。あれならお客さんたちも喜んでくれたろう。」
生徒たちの表情が緩んだ。
「演奏前の準備、リハーサル、本番、片付け。
どこをとっても気になる所はなかった。今日の君たちは、サイコーだ!」
女子、特に卒業生の女子を中心に、すすり泣く声も聞こえてきた。
「明日は予定通り反省会を開くからみんな、遅れるなよ。
今日はさっさと帰ってゆっくり寝ること。三年生を送る会も兼ねてるからな、
三年生は気の利いた一言を言えるようにして来いよ。
ほい、じゃあ号令!」
部長の声が響く。
「気をつけ!礼!」
「ありがとうございました!」
潮が引くように生徒たちは帰っていった。
学校に戻り、楽器を片付ける数名を残して。

会館を出てトラックに乗り込もうとする時、根岸瞳が声をかけてきた。
「先生、助手席に座ってもいいですか?」
「いいけど、俺、タバコ吸うから煙いぞ。それでもいいのか?」
「えー、禁煙しましょうよー。でもいいや、大丈夫でーす。」
別の生徒がブーイングだ。
「えー、瞳ばっかずるいよー。またあたしら荷台ー?」
OBがけりをつける。
「いいから早く乗れ!時間が無いんだから!」
中山が確認する。
「よーし、みんな乗り込んだな?積み残しは無いな?
じゃあOBは車に分乗してついて来いよ!」
皆が乗り込んだことを確認し、中山と瞳はトラックに乗った。

「今日はどうだったよ、瞳。」
学校までは車で約二十分。この時間なら道もすいているはずだ。
「感動しました!演奏中に何度も鳥肌が立っちゃった。
先輩たちのソロもかっこよかったし。それに・・・・・・」
少し間が空く。
「ん?それに、何だ?」
「先生もすっごくかっこよかったです!」
その声の調子に思わず中山は瞳の顔を見た。
高潮した頬に少し潤んだ瞳。
なぜか中山は胸を締め付けられるような気持ちを覚えた。
「先生、前!前っ!」
「うわっ、とっとと・・・・・・」
センターラインをはみ出し、危うく対向車にぶつかる所だった。
車を元に戻すと、中山は息を吐き出した。
「危ねー危ねー。」
「まったくもう、先生、だめじゃないですか。
私に見とれてないでちゃんと運転してくれなきゃ!」
「何言ってんだよ。ああ、でもびっくりした。
後ろの奴ら、大丈夫だったかなあ。」

学校に到着し、トラックの荷台の扉を開くと、
中にいた生徒たちが口々に文句を言いながらよろよろと出てきた。
「まったくもう!ちゃんと運転してくださいよ!死ぬかと思った。」
「何やってんすか、もう。バリサクのケースは倒れるし、
銅鑼は僕に襲い掛かってくるし。」
「中は真っ暗だから、何がなんだかわかんないのよね。
だから余計に怖かったー。」
中山は冷汗をかきつつも笑いながら、
「すまんすまん、何か猫見たいのが飛び出してきてなあ。
思いっきりよけちゃったよ。けが人とか、いないよな。」
「大丈夫でーす!」
「よし、じゃあ楽器を運ぼう。OBもみんな着いたみたいだな。海野!」
「はい!」
「鍵渡すから先に部室と準備室空けて、電気つけてきてくれ。」
「分かりました。」
ポケットから鍵束を取り出し、部長に渡す。
部長が走り出し、階段の照明が徐々についていくのが見える。
「よーし。じゃあ最後の一仕事だ。がんばろう!」
手分けしてトラックから荷物を降ろし、
どんどん三階にある部室に運んでいく。
三トントラックにほぼ満杯の荷物なので、結構な量だ。
ティンパニーやマリンバ、バスドラムなどの打楽器や
チューバなどの大きな楽器もあり、階段を運ぶのには注意が必要だ。
しかしながら、部員・OBたちは普段からコンクールや演奏会で
運搬に離れているため、動きはスムーズだった。

三十分もすると、楽器やその他の設備は、
全ていつもの場所に落ち着いていた。
中山はOBに頼んで、飲み物と軽い食べ物を用意してもらっていた。
「よし、じゃあ軽く休んでから解散しよう。」
わいわいがやがやと飲んだり食べたりしながらの談笑が続く。
ほっとする瞬間である。二十分ほどたった所で中山が立ち上がり、
皆が彼に注目する。
「今日は本当にお疲れ様。特にOB諸君、縁の下の力持ちに
徹してくれてありがとう。新部長は明日の司会、宜しく頼むぞ。
OBも来られるものは来てくれ。よし、じゃあ解散!」

飲食後の片づけをしながら中山は考えていた。
部室の片づけが始まってから今の今まで、ふと気づくと
瞳が熱いまなざしを自分に送っているのだった
今までにも擬似恋愛的に自分にアプローチしてくる生徒はいたが、
瞳のこの眼差しは今までに経験したことの無いものだった。
「何なんだろうな。」
中山は考えた。
片付けも終わり、皆が部室を出たのを確認し、
電気を消し、鍵を閉めた。
「根岸瞳・・・・・・」
帰りの車の中で彼はその名前をつぶやくと、
首を振って正面を見据えた。
ラジオからは福山雅晴のオールナイトニッポンが流れていた。

根岸 瞳

この春から中学三年生。共働きの両親のもと、妹を加えての四人家族。
吹奏楽部ではオーボエを担当している。
たいへん高価な楽器ではあるが教育熱心な両親はこれを彼女に買い与えた。
マリゴーの、中古でも七十万円位する奴だ。
自分の楽器を手にしてからの彼女の伸びは素晴らしく、
一つ上の先輩を、二年の夏には超えていた。
長い黒髪を後ろでゆったりと結んでいるので、
平安時代の女性の絵に似ていると言われ、
クラスでは「式部」というあだ名がついている。
最初は紫式部だったのが、長いので縮まったのだそうだ。
本人は別に気にした風も無い。
成績は常に上位。マラソン大会では百八十人中八位に入賞し、
運動部連中を驚かせた。
際立って美人、というわけではないが、
各方面にバランスがよく、また、内面からにじみ出る明るいその表情で、
男子には人気があった。
身長は百六十くらい。この一年でずいぶん伸びたが、
おそらくここで止まるだろう。
この先は男子に追い抜かれることになる。
生徒会にも推薦されたが、部活を優先したいと断ったそうだ。
先輩からも可愛がられ、後輩の面倒見も良い、
言ってみれば非の打ち所の無い生徒であった。

三年生を送る会の中で、今各パートの後輩から先輩へ
送る言葉が述べられている。
フルートが終わり、今、オーボエのところだ。
瞳がしゃべっている。
「・・・・・・以前先生が仰ったこと、覚えていらっしゃいますか。
バンドの最前列のフルートとオーボエにはルックスの良い子を割り当てるって。
あの時後ろの列のパートからはすっごいブーイングがあがったけど、
私はその時先輩を見てなるほどって思ったんですよ。そして・・・・・・」
笑いの中で話は続いていた。先輩今までありがとう、卒業しても遊びに来てね、
と言ったあたりまえの内容だが、話し方のせいか皆楽しそうに聞いている。
最前列にルックスの良い子、というのはまんざら嘘でもなかった。
あの時は冗談めかして言ったものだが、実は本当のことだ
などと言ったら部長をはじめみんなから大抗議だろうな。
ふと気づくと話の合間ゝで瞳が目が合う。
なんだろう、と思いつつ、夕べのトラックの中を思い出した。
「まさかね・・・・・・」と、彼は首を振った。
三年生を送る会も順次プログラムを終え、
最後は恒例の涙なみだの握手&サイン&写真撮影会を迎えていた。
予定時間を大幅に超えているが、
去りがたい卒業生は会場に残るのだった。
そんな中で中山は卒業生ひとりひとりとなつかし話をし、
励まして見送った。これでまた新バンドを鍛え、
育てていかねばならない。
気持ちが引き締まる中山だった。
卒業生を皆送り出した後、在校生で片づけをし、
ミーティングの後、解散させた。
部長以下主要メンバーには話があるので残るように言ってあった。
新しい首脳陣を前にして、中山は今年度の方針を手短に伝えた。
すると瞳が発言を求めた。
「ん?何だ、瞳。」
「はい。えーと、うちのバンドにはコンサートマスターがいませんよね。」
コンサートマスターとは、練習、本番に関わらず、
バンドを演奏面でまとめ、導く役目のことだ。
オーケストラではたいていファーストバイオリンの首席奏者が務める。
女性の場合はコンサートミストレスなどと呼んだりもする。
「ん、そうだけど、今までは部長が兼任と言うか・・・・・・」
「だめです!きちんと専任を置かないと。
部長は部長でいろいろと大変なんですから。ね、海野ちゃん。」
「そ、そうね。」
瞳の剣幕に圧倒され、部長の海野恵が思わず相槌を打った。
「別に置いても構わないが、一体誰がやるんだ?」
間、髪をいれず瞳が応えた。
「わたしがやります!」
「瞳が?みんなはどう思う?」
他の生徒たちは顔を見合わせ、頷きあいながら、
「別に、いいんじゃないですか?」
「そうね、瞳ちゃんなら大丈夫じゃないかな。」
「そうか。じゃあ瞳、お前に任せようか。」
ものすごく嬉しそうな顔をして瞳は「ありがとうございます!」と言った。
次の日から四月三日までの五日間、中山は部活を休みにした。
久しぶりに故郷に帰るつもりだった。

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