The Stories of Mine      

掛け違えた釦

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【三】

次の日、目覚めた中山は、遅い朝食(ほとんど昼食といっても良かったが)
を終えると、荷物を簡単にまとめ、
厨房で働く両親に声をかけ、出発した。

帰りは御殿場から東名に入り、横浜青葉インターを目指すことにした。
車中では彼は吹奏楽やクラシックのCDを大音量で流すため、
同乗する人間にはあまり評判はよろしくない。
また、車内で平気でタバコをすうため、篭った匂いも不評だ。
今日流れているのはグラズノフの『四季』の『秋』だった。
「今年の自由曲はどうするかなあ。」
彼は一人ごちた。

定期演奏会では、一・二年生(今年度の二・三年生)のステージで、
邦人作曲家の吹奏楽の名曲「仮面幻想」とドビュッシーの「海」に挑戦し、
なかなか好評だった。ここ二年は、春の定期演奏会で一・二年生を鍛え、
そのとき使った曲を次年度のコンクールの自由曲として来た。
新体制となってからの三ヶ月ちょっとで新曲をコンクールで
「勝てる」状態まで持っていくには生徒たちの力が足りなかったため、
今まではそれが一番良い方法だったのだ。
しかしながら、今年度のメンバーは今までのメンバーとは
明らかに違っていた。新しい曲に取り組み、それを仕上げていくだけの
力はついていると中山は踏んでいた。

(そろそろあいつらに選ばせても・・・・・・甘いな。
コンクールは遊びじゃないし、自己満足のためのイベントでもない。
俺が決めなきゃ・・・・・・)

バンドのメンバー個々の力を冷静に分析し、全体のバランス、
力量を見極めた上でそれに合わせた曲を選ぶ。
それが中山が大西から受け継いだやり方だった。
情に流されてそのやり方を曲げてはならない。今年はどのパートが良い?
オーボエがダントツだ。これを活かさない手は無い。
瞳にソロを持たせる。金管はすべてにバランスがいい。
特にホルンとユーフォニウム、テューバ。中低音はバッチリだ。
トランペットにもバラつきはないし、トロンボーンも安定している。
木管楽器はどうだ。これほど音色のそろったクラリネットはおそらく県内、
いや、関東一だろうな。打楽器もセンスが良い。
昨年から入ったストリングベースだが、今年は三本入れられるだろう。
本当に楽しみなやつらだ。

「よし、大体見当がついたな。今年も狙ってくぞ。」
いつの間にかカーステレオからは音が消えていた。
彼の頭の中ではイベールの「寄港地」の第二楽章が流れていた。
エキゾチックなメロディを瞳が吹いている絵が浮かんだ。
横浜青葉インターに到着、インターを出ると、
彼は自分のマンションではなく、学校へと向かった。

「ちーっす。」
職員室に入る。中には二・三人の教師たちがいるだけで静かだった。
「よう!明日までは来ねえと思ってたけど、どうした?」
ソフトボール部顧問で、数学担当の北沢が中山に声をかけた。
彼の率いるソフトボール部も二年連続で県代表となっている強豪だ。
その甘いマスクで女生徒に人気だが、指導の厳しさは有名で、
部員からはまた別の目で見られているようだ。
部活動全体のまとめ役でもある彼に、中山は一目置いていた。
「いや、ちょっと資料のCD取りに来たんですよ。
北沢さんこそまた休みなしでしょ。生徒もそのうちバテちゃいますよ。
ちょっとは家庭サービスとかやんないんですか?」
「家庭サービス?」
北沢は遠い目をして続けた。
「ずーっと昔に聞いたことがあるような気がしないでもない言葉だな。」
「家庭崩壊も近いな、こりゃ。」
「何を言ってる。妻はこんな俺を愛して結婚したんだ。
今でも俺の一番の理解者だ。」
「この間休んだのはいつでしたっけ。」
「うーんと、卒業式の次の日曜日かな?いや違うな、その日は練習試合だったし。 思い出せんなあ。」
「絶対異常だって。よくお子さんがグレないっすね。」
「どんなに離れていても心がつながっているのさ。
俺の愛のパワーはあまりにもでかいのだ。
なんつってな。妻がしっかりしてるんだよ。
あいつには感謝してるんだ。」
一度北沢の家に遊びに行ったことがある。
北沢が一人で大騒ぎしてさっさと寝てしまった後、
北沢の妻がしんみりと語ったことを思い出した。
「ある意味あきらめてるのよ。こんな人を愛しちゃった
私の負けってところね。一度だけ子供のことでこの人を
責めたことがあるんだけど、
そのときの悲しそうな顔は忘れられないわ。
しょうがない、あたしががんばらなくちゃって。
でもね、父親不在ってのも結構つらいのよ。
あ、こんなこと、この人には言わないでね。」

自分は将来どうなるのかな、と中山は思った。
結婚しても今のように吹奏楽をやっていけるんだろうか。
亜紀子はなんて言うだろうか。瞳なら・・・・・・
「おい、どうした中山。」
中山は我に帰り、「なんでもない」とでも言うように手を振ると、
ロッカー室へ入っていった。
(なんでここで瞳が出てくるんだよ。何考えてんだ、俺は。)
思いを振り切るように頭を振り、自分のロッカーから
目当てのCDを取り出し、職員室に戻った。

鍵束をつかむと音楽準備室に向かう。
もう一人の音楽教師は熟年の女性でコーラス部を受け持っている。
一応机はあるが、授業のとき意外はめったにここにいることはない。
そういうわけで、この準備室はほぼ第二の吹奏楽部室となっていた。
音響装置にCDをセットすると、音楽室に入り、大きめの音でイベールを聞く。
オーケストラの音に部員の姿を重ねながら聞くのだ。
イメージが少しずつ彼の脳に焼き付けられていく。
このイメージが完成しなければ自由曲として選ばれることはない。
繰り返し繰り返し曲を聴く。
第二楽章の「チュニス〜ネフタ」第三楽章の「バレンシア」
この二曲を組み合わせるのが時間的にもちょうど良い。
八回繰り返したところでイメージが出来上がった。
実を言うとこの曲はいつかやってみたいと思っていたもので、
学生時代にすでに自分で編曲してあったのだ。
今日これから今のメンバーに合わせて少々手直しをし、
明日そのコピーを生徒たちに渡すことになる。
(ちょっと忙しいな。)

手直しが済んでコピー室に入ったのが十九時過ぎだった。
北沢が覗いて中山に声をかける。
「よう、お前で最後だからな。戸締り頼んだぞ。」
「はいっ。お疲れシタッ。」
メンバー全員分のコピーだから時間がかかる。手書きなので、
一パート分が何枚にもなるし、大変だ。
作業を始めて一時間もたった頃、携帯電話に着信があった。
「だれだこれ。知らない番号だな・・・・・・はい、もしもし。」
「・・・・・・中山先生ですか?」
「そうですが、どなた?」
「瞳です。根岸瞳。」
中山はドキリとした。
「瞳かあ。驚いたな。どうした?」
「今先生学校にいるんですか?」
「そうだけど・・・・・・何で?」
「印刷室ですか?」
「何でわかるんだ?」
そう聞いて窓のほうを見やると、人影が映っていた。
ピンと来て窓に取り付くとカーテンを開ける。
瞳が外に立っていた。窓を開く。
「お前、こんな時間に何やってるんだよ。家の人が心配するだろう。」
「塾の帰りなんですよ。通りかかったら職員室と印刷室の明りがついてて、
あと、音楽準備室の明りも見えたので、もしかしたらって。」
「え?準備室?」
「ええ、ついてますよ。」
どうやら消し忘れたらしい。後で消しに行かないと。
「楽譜のコピーをしてらしたんですか。手伝いましょうか?」
「いや、もう大体終わってるし、こんな時間だしな。
いいから、今日はもう帰りなさい。」
「はい。わかりました。明日から信勝、楽しみにしてるんですよ!
じゃあ、さよなら!」
「ああ、さようなら。気をつけてな。」
いつもの瞳の笑顔だった。演奏会の帰りに感じたアレは何だったんだろう。
取り越し苦労ならいいのだが。
中山は少しほっとして窓とカーテンを閉じた。
コピーをまとめ、職員室の自分の机の上に置くと、
あわてて音楽準備室の明りを消しに走った。

戸締りを確認し、警備会社に確認の電話を入れると、
すべての鍵を閉め、車に乗り込む。エンジンを書け、ライトをつけ、
門から出ようとハンドルを切る。
一瞬、ライトに照らされて人影が浮かび上がったように見えた。
門から出たところで車を降りると今来たところを歩いて戻る。
人がいたように見えたところにはすでに誰もいなかった。
考えたくはないがそれは瞳の姿だったようにも思えた。
中山は門を閉め、車に乗り込み、アクセルを踏み込んだ。
門と校舎の間の茂みにその車を見送る影があった。
中山の車が見えなくなるまで、じっとそこに佇むのだった。

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