掛け違えた釦
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【二】
中山の故郷は富士山の山梨県側、河口湖町だった。
中学時代は近くの大月市に住んでいて、やはり吹奏楽少年だった。
彼の通っていた大月西中学の吹奏楽部といえば
当時は全国大会の常連で、彼自身、二度全国大会に出場している。
三年の時は関東大会のダメ金で涙を呑んだ。
今まで出最高の出来だと言われていただけに
ショックを受けたのを今でも忘れないのだった。
その後彼は高校でも吹奏楽を続け、音大でオーボエを専攻し、
教員となって今度は指揮者として全国大会への出場を果たしたのだ。
中学校時代の恩師は、教育委員会の指導主事を経て、
今は大月市内の中学で校長を務めている。
彼は恩師にも会いに行くつもりだった。
中山の両親は彼の大学時代、河口湖にペンションを開き、
そちらに移り住んでいた。そこそこ流行り、
固定客も着いて経営は安定しているらしい。
昔に比べるとずいぶん便利になったな、
と彼は思いながら彼は中央自動車道の河口湖線を飛ばしていた。
河口湖ICで降りると、両親のペンションまで十分ほどで到着だ。
彼は車をペンションの駐車場に止めると、勝手口から家に入った。
午後三時。時期的にも今はさほど忙しくはないだろう。
「ただいま。」
リビングに入ると、父親がソファで居眠りしていた。
中山が声をかけると、だるそうに目を開け、言った。
「よう、帰ったか。ゆっくりしていけるのか。」
「3日まではいるよ。大西先生にも会いたいし。」
「亜紀ちゃんにも会いたいし、の間違いじゃねーのか。」
と、父がからかった。
亜紀子とは中学の吹奏楽部以来の長い付き合いとなる。
今ではお互いなるようになるんだろうな、と思っている仲だ。
「うるせーよ。母さんは?」
「買い物だ。ビールならあるぞ。」
「いいねえ。親父はどうする?」
「母さんが帰ったらすぐに仕込みだからな。飲んでらんねーよ。
今日は3組はいってる。」
「流行ってんじゃん。俺は手伝わねーけどな。」
「ハナからあてになんかしてねえよ。」
両親が忙しそうなのはありがたかった。元気に働いてくれるうちは安心だ。
弟は仕事で九州に行っていて、しばらくは戻るあてもないらしいし、
自分もしばらくは仕事に没頭していたかった。
中山は携帯電話を取り出すと、亜紀子の番号をプッシュした。
呼び出し音が5回鳴り、いつもの明るい声が聞こえてくる。
「まーくん、帰ってきたんだ。どうする?今夜ヒマだけど。」
「頼むからまーくんって言うな。」
「えー、何、じゃあ、正道さん?中山さん?」
「うーむ、どれもしっくりこないな。まあいいや。
どうしようか、飯でも食う?」
「いいよー。迎えに来てくれるんでしょ?何時?」
「じゃあ……六時半くらい?」
「わかった。じゃあね。」
電話を切るなり、後ろから声がかかる。
「なんだ。やっぱ亜紀ちゃんと会うんじゃねーか。」
中山は驚いた。
「何だよ親父。いきなり背後から声かけんじゃねえよ。
あいてがゴルゴなら殴られてるとこだぞ。」
「へへっ。おまえはゴルゴじゃねえし。
今夜は一緒に飲めると思ったのによ。明日はどうなんだ?」
「そうだな、大西先生との約束は昼間だから、夜は家で飲むよ。」
「へっ。そうか。なら今夜はゆっくりしてこいや。」
「んだよ、その助平な目は。じゃあ行って来る。」
「なんだよ。まだ早いじゃねーか。」
「ちょっと流してから行く。」
中山は帰郷すると必ず車で河口湖の周りや
時には山中湖あたりまで流すのが習慣だった。
寒くても窓を開けて郷里の空気を目いっぱい吸うと、
都会で溜まっていたストレスがすうっと消えていくようだった。
気がつくと時計は六時半を示していた。
中山はあわてて大月の亜紀子の家に向かった。
「おーそーいー。」
亜紀子の家に着いたのは六時四十五分だった。
昔からいつもこんな感じだった。
中山が待ち合わせに少し遅れて、亜紀子が怒る。
年中行事だ。
「悪い。乗れよ。」
玄関から亜紀子の母が出てきた。中山は車を降りて挨拶する。
「わざわざ出てこなくてもいいのに。今日は遅くなってもいいから。
亜紀子をよろしくね。」
亜紀子の母もなかなか言う。
「やあね、母さん。なんかいやらしい言い方。」
「あら、そう感じるほうがやらしいのよ。ねえ、正道君。」
「あ、いや、そうっすかね……」
「なに、母さんの味方するんだ。もういいよ、行こう!」
亜紀子に腕をつかまれる。引きずられるように車へ。
「ふふ。行ってらっしゃい。」
亜紀子の母が笑顔で手を振った。
「どこの親も一緒だなあ。俺の親父も似たようなこと行ってたぞ。」
「……。」
「ん?どうした?」
「わかってないなあ。」
「何がだよ。」
「あたしたちもう、付き合ってずいぶんになるでしょ。」
「そうだな。」
「親としちゃいつ結婚するんだろう、この子達は、ってなもんよ。」
「そんなもんかねえ……って、今なんていった?」
「結婚よ。ケ・ッ・コ・ン。」
「結婚かあ……考えても見なかったなあ。」
事実中山は結婚など考えてもいなかった。
今は教師の仕事、中でも吹奏楽の指導に没頭していたかったのだ。
「今日はそうね、そのことについてじっくり話し合いたいところね。」
中山はこの後の展開を想像し、頭が痛くなった。
そんな中山の気持ちを察したかのように亜紀子は言った。
「冗談よ。久しぶりに会ったのにいきなりそんな重い話もなんだしね。
今日は楽しくやりましょう。」
中山には亜紀子の気遣いがありがたかった。
でもそのうちこの事はちゃんとしなきゃな、
と心の中でつぶやいたのだった。
二人でよく立ち寄るパブレストランに到着。
パーキングに車を止め、店に入る。
「シャローム」という名の、山小屋みたいな名前の店だ。
軽い食事からコース料理まで、客の希望で何でもやってくれ、
しかも味がよく内装も洒落ていることから、若者にも人気の店である。
「マスター久しぶり!」
「おやめずらしい。半年ぶりくらいじゃないの?
亜紀ちゃんの事あんまり放っとくと逃げられちゃうよ。
それはそうと、去年のコンクール全国大会出場、改めておめでとう。
よくやったね、まーくん。」
マスターまでまーくんかよ……と思いつつ、
心を込めてありがとうを返した。
「マスターも相変わらずだな。亜紀子、何食う?」
「ピザ!マスター得意の皮の薄いやつ。後はビール。」
「まーた。『シシリー風』とか言わないとマスター怒るぜ。
マスター!シシリー風ピザ2枚とバド二本ね!」
「はいよ。皮の薄いやつ二枚とバドワイザーね。」
「あ〜らマスター、聞こえてたの?」
「あたしのデビルイヤーをなめちゃいけないよ。
飲むんだったら代行予約しておく?」
「ああ、お願い。」
「何時にしようか。」
「10時で。」
「了解。」
マスターのピザはうまかった。ビールで流し込みつつ、
亜紀子との軽い会話を楽しんだ。
ふと瞳の顔が浮かんだ。彼女の事を亜紀子に話してみよう、と思った。
「実はさ……」
中山は瞳のことを話し始めた。演奏会の後のこと、
次の日の送る会の時のこと、今までにもあった生徒の初恋ごっことは
少し違ったものを感じている事など、亜紀子に話してみた。
「そうね、今聞いた限りでは中学生にありがちな初恋物語って感じがするけど、
あなたが今までと違う感じを受けるっていうんなら
何かあるのかもしれないわね。でもねえ、今の話だけじゃなんとも言えないわね。
あなたのほうで特別扱いしないで一部員としてきちんと接してあげれば
大丈夫なんじゃない?それにしても……ふふっ。ちょっと妬けるかも。」
「何言ってんだよ。でも、そうか……そうだよな。
なんか変、だけじゃなあ。俺の考えすぎか……」
話は二人の昔話へと移っていった。
中山もしばし瞳の事は忘れたかのようだった。
次の日、中山はゆっくりと起き出して遅い朝食を食べていた。
ちょっと飲みすぎたかな、と頭を掻いていると、
母が食堂に入ってきた。
「そういえば正道、今日は大西先生のところに行くんでしょ。」
「そうだよ。」
「手土産くらい用意してんだろうね。」
「へへっ。ちゃんと買って来てますぅ。草加せんべい。」
「あら珍しい。人間、学習するって事だわね。
よろしくお伝えしといてよ。」
「はいはい、了解しました。」
年度の変わり目で忙しい中、大西は中山のために時間を割いてくれた。
中学生のころ、中山は大西に本当にかわいがってもらったものだった。
当時の大西の指導はかなり厳しいものだった。
生徒自身の不注意や練習不足によるミスには容赦なく鉄拳が飛んだ。
校長室で会話する二人は昔の師弟に戻っていた。
「本当にあのころは先生が怖かったですよ。何度もこの人は鬼だと思いました。
結構殴られたけど、不思議と恨みがましく思った事はなかったですね。」
「当たり前だ。俺の拳には愛がこもっていたんだから。痛かったのは俺の拳の方だ。」
「一生懸命やってるのにできないときには殴られる事はなかったですし、
殴られるときはもう自分で(やばい、来るっ)ってわかってましたね。
気を抜いたり手を抜いたりした時でしたから。」
「そう。あの頃のお前たちはその辺の呼吸がわかっとったなあ。
だが今はだめだ。今はとてもじゃないが当時の指導は通用せん。」
「そうですね。生徒に手なんか出そうものなら、頭を超えて
教育委員会にいきなり電話が入りますよ。
下手すりゃいきなり弁護士付で現れますからね。」
「そんな中であれだけのバンドを作り上げたんだ。
うん、お前はたいしたものだ。俺はうれしいよ。」
「そんな。すべては大西先生のご指導の賜ですよ。
あの頃があったからこそ今の僕があるんじゃないですか。」
そこまで話したところで、またふと瞳の顔が頭に浮かんだ。
どうしよう、先生に話してみようか。でも一笑に付されて終わりかな・・・・・・
黙り込む中山を大西は怪訝そうに見て、
「どうした?何を考えてる?」
「あ、いえ、ちょっと気になる生徒がいるもので・・・・・・」
中山が我に帰って答えた。
「ほう、どんな子だね?話してみたまえ。」
「新三年のオーボエの子なんですが、とてもいい子で
本当に素直に伸びてきている子なんです。」
「いいじゃないか。ソリストがいい時は選曲の幅も広がるしな。
今年のコンクールも楽しみだ。」
「ただ、その子の様子が・・・何というか・・・おかしいんです。」
「というと?」
「先生には笑われるかもしれませんが・・・・・・」
中山は亜紀子に話したような内容をまたここでも話した。
ただ、話を終えた後の大西の様子が、亜紀子のそれとは違っていた。
「先生、どうされました?」
大西はゆっくりと顔を上げ、中山の顔をまっすぐ見据えた。
「いいか、中山。」
ただならぬ大西の様子に中山は思わず姿勢を正した。
「はい。」
「その子は慎重に指導しろ。はっきり何がどうだとは言えないが、
素直で真直ぐ、というところが妙に引っかかる。
これがちょっとませたチャラチャラしたタイプなら
何と言うこともないんだが・・・・・・」
「亜紀子みたいな、ですか?」
「ふふっ。まぜっかえすな。」
二人は当時の亜紀子のことを思い出していた。
一時期亜紀子は大西の完全な「追っかけ」だったのだ。
「とにかくそういう子は思いつめたときが怖い。
驚くようなことをしでかすことがある。
慎重に、慎重に、傷つけないように、ただし厳しく、だ。
教師としての一線をしっかり守れ。」
「過去にそんな子はいましたか?」
「うむ。教頭時代に勤めた学校のバスケット部に
似たような子がいたな。結果、顧問は三ヶ月の休職、
その子も他県に引っ越したよ。その後の消息はわからんがね。
その顧問も復職することはなかったよ。」
中山は師の言葉に慄然とした。
時計を見る。かなり時間をとってしまっていた。
「もう少し詳しくお聞きしたいところですが、
少し長居をしすぎたようです。今日はこれで失礼させていただきます。」
「そうか。これでまたコンクールが終わるまではしばらく顔が見られんな。
どうだ、今年も期待しとっていいか?」
「はい。素材としては今年のほうが良い音してますよ。
僕の指導がしっかりしていれば問題ありません。」
「なら大丈夫だろう。ま、無理はするなよ。そうそう、草加煎餅な、
ありゃなかなかうまかったぞ。その辺のやつはあれだ、
醤油がいかんな、醤油が。じゃあ気をつけて帰れよ。」
「はい。先生もくれぐれもご無理なさらず。もういい年なんですから。」
「はっはっはっ。言うじゃあないか、こいつも。」
「では失礼します。」
大西先生も本当に変わらないな。いまだに前に立つと緊張するぜ。
などとつぶやきながら中山は車に乗り込んだ。
帰宅途中、車中で中山は大西の言ったことを頭の中で繰り返していた。
(慎重に、慎重に・・・一線を守って・・・驚くべようなことを・・・)
「ま、考えていてもしょうがねーや。やるっきゃねえべえ。」
中山は何かを振り切るようにそうつぶやくと、家路を急いだ。
約束通りその日は父親の酒の相手をしてやる中山だった。
珍しく母親も仲間に加わり、昔話で盛り上がった。
「亜紀子ちゃんとはいつ結婚するんだね。あんまり待たせちゃ悪いよ。
二人とももういい年なんだから。」
酔うと必ずこの話題になる。
「正道も亜紀ちゃんもなんだ、もう三十になるんじゃねえのか?」
「去年なったよ。今年で三十一。」
「バカヤロー。三十一っていったらオメエ、
俺なんかとっくにお前こさえてたぞ。」
「わかったっつーの。それよかそんなに酔って大丈夫なのかよ。
今日だってお客さん泊まってんだろ?」
「なーに、かまやしねーよ。それより孫だ!早いとこ孫作れ孫!」
「だーかーらー。まだ結婚なんかしないっつってんの。」
「ほんとにねえ、この子は。楽団と結婚しちゃったみたいなもんだねえ。
あ〜あ、亜紀ちゃん、待っててくれるかしら。」
「ハイハイ、俺はもう寝るぞ。明日帰るからな。おやすみ!」
強引に寝室に引っ込み、布団にもぐりこんだ。
取り留めの無いイメージが頭に浮かぶ。
春のミニコンサートの曲はどうしようかな。
例年通りポップスでまとめるか。演歌なんて混ぜてみるかな。
とりあえずあいつらの意見も聞いてやろう。
実家の布団の中でも頭の中ではそんなことばかり考えていた。
取り留めない考え事がふと途切れると、瞳の顔が浮かんだ。
そう。どうしても気になる。中山の中で何かが生まれつつあった。
中山自身は気づいていなかったが、
それこそが大西の恐れていたことなのであった。
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