The Stories of Mine      

掛け違えた釦

01 02 03 04 05 06 07 08 09 10
【7】

五月五日。ゴールデンウイークの三日目。
中山率いる宮之阪中学校吹奏楽部は前浜臨海公園に来ていた。
前浜支部の吹奏楽祭がここで開かれるのだ。
前浜の各地区から集まった十二校が今日一日、吹奏楽の演奏を繰り広げる。
コンクールとは違った楽しい演奏を、と言うことで、マーチやポップスを中心とした曲目が演奏されるのだ。
当然前浜市内の有力校である西橘中も、西海大学付属中も参加してくる。
生徒たちもお互いの演奏が聞けるのを楽しみにしているのだ。

今回は余興で、西橘中の演奏中、松山がドラムをたたき、宍戸がトランペットソロを、
中山がオーボエでソロを吹く、という一曲を用意した。
ボロディンの歌劇「イーゴリ公」の中の「だったん人の踊り」のメロディーを使ったポップスで
「ストレンジャー・イン・パラダイス」という曲だ。

西橘中の演奏が始まっていた。
一曲目はサンバの名曲「ブラジル」だ。
最初からノリノリである。
トランペットやトロンボーンがスタンドプレイでラッパを右に左に振り回しながら明るい音を響かせている。
相変わらずの迫力だった。よく聞くと、低音セクションが去年よりも強力で、安定感が増している。
四曲目がストレンジャーインパラダイスだった。司会の部員がMCを入れる。
「それではここで一曲、特別ゲストをお迎えしてお送りしたいと思います。西海大学付属中学校顧問の、宍戸先生!」
拍手に迎えられて宍戸が登場した。
「そして、昨年、全国大会出場を果たした宮之阪中学校顧問の中山先生です!」
やはり大きな拍手で中山は迎えられた。
「当校の顧問、松山がドラムセットをたたきます。途中から編曲がかわり、ジャズのビッグバンドみたいな演奏になりますので、
みなさん、ご期待ください。ようするに、うちの顧問も目立ちたいんです!」
松山が立ち上がって礼。会場から笑いが起きる。

西橘中の演奏とあって椅子席はすでに埋まり、立ち見客が四重五重にその向こうにひしいめいていた。
中山がオーボエを構えると、なぜかそれだけたくさんの客の中で、瞳の姿が目に入った。
ほんのりほほを赤くして、潤んだ目で中山を見ている姿が、妙にはっきりと中山には見えた。
しかしながらそれも一瞬のことで、中山は目の前の生徒指揮者に意識を集中させた。
予備拍の後に美しい和音が響く。
中山がソロパートを吹き始めると、実に自然に伴奏が一歩下がり、中山の音色を引き立たせる。
宍戸のトランペットが加わるとまた絶妙なバランスで伴奏がメロディを浮き立たせるのだ。
途中のビッグバンドパートでは松山がそのドラムテクニックを余すところ無く、
しかも押し付けがましくなく披露した。
最後にまた中山のオーボエが主題を奏で、演奏が静かに終わる。
終わった瞬間、会場は大きな拍手の渦の中に飲み込まれた。
さすがは松山。いい音作ってる。
中山はそうつぶやくと、にやりと笑った。

西海大学付属中の演奏では、オーボエ奏者二人が実に美しいメロディを聞かせてくれた。
瞳が熱心に聴いていた。また、マーチを中心に吹奏楽らしい音を存分に響かせた。

いよいよ宮之阪中の番だ。
中山はポップスもかなり好きなのだが、実は歌謡曲なども結構好きで、
「お父さん向け」と称して演歌なども選曲したりするのだ。
他のバンドとは一線を画すその風変わりな選曲が受けて、
うわさを聞きつけた一般のファンで会場は満杯になるのだった。

今日は特に、北島三郎が大好きな副校長を招いて、「与作」を歌ってもらうことになっていた。
副校長の井田だが、これまた歌が大変うまいときている。
「与作」は大好評だった。
そんな井田の普段のいかめしい顔と違った笑顔を見て、生徒たちもうれしくなるのだった。
マーチあり、サンバあり、演歌あり、テレビアニメの主題歌ありで、老若男女、様々なファンを増やして宮之阪中は演奏を終えた。
楽器を片付けている生徒たちに、井田がねぎらいの声をかけようとやってきたが、
逆に生徒達に囲まれて、「先生歌うまーい!」「かっこよかったですぅ!」とかやられてしまい、
でれでれになっていた。
中山と目が合ってはっとしたように顔を元に戻し(あくまでも目は笑っていたが)、
生徒たちにねぎらいの言葉をかける井田であった。

会場の片づけを行っている時に、松山が若い男を連れてやってきた。
「中山!ちょっといいか?」
「おう、どうした?」
連れの男の腕をつかみ、ぐいっと前に押し出しながら紹介した。
「前に言ったろ。大須賀中央中の堤だ。堤、こいつが宮之阪の中山だ。」
堤は松山の勢いに面食らいながらも、笑顔で自己紹介をした。
「ども、初めまして。大須賀中央中の堤です。宜しく御願いします。今日は楽しい演奏、ありがとうございました。
いやあ、前浜のバンドはどこもレベルが高い。それもこれも中山さんたちの動きあってのことだって聞いてます。ぜひ勉強させてください。」
感じのいい男だ、と中山は思った。目がきれいだし、吹奏楽に対する熱い気持ちが言葉の端々から感じられる。
なんでも素直に吸収してくれそうだ。強力なライバルが増えることにはなるだろうが、それこそ望むところだった。
「こちらこそよろしく。神名川の吹奏楽のレベル向上のために、みんなで一緒にがんばっていこうよ。」
「はい、ぜひ。」
松山が例によって高笑いをして堤の背中をドン、とたたいた。
「こいつは力になるぜぇ。今年は間違いなく代表入りだ。な、堤。」
「はい、そのつもりです。」
楽器積み込みを終えて合流した宍戸が堤の返事を受けていった。
「心強い返事だねえ。県代表どころか全国を見てる目だよ、これは。」
「そのくらいじゃねえとな。それはそうと、中山、宍戸、今日の夜、空いてねえか?予定がねえなら、
楽器を片付けた後、こいつと飲もうと思うんだが、どうだ?」
中山の目が光る。
「いいねえ。わかった。学校で楽器を片付けたら車は置いて出るよ。どこにする?」
「そうだな、考えるのもめんどくせえから舘内でどうよ。宍戸、何時にこられる?」
宍戸の学校は市の中心から少し遠いところにあった。
「そうだなあ、なんだかんだで八時くらいになっちまうかもな。でもいいよ、先に飲っててくれ。俺も車は置いてくるから。」
「堤、お前も大丈夫だろう?」
「はい、大丈夫です。生徒は副顧問がきちんと帰しますから。」
宍戸が松山の胸をトンとたたいて言った。
「なんだよ、堤君に都合聞いてなかったのかよ。」
「わっははは。そんなん、いいにきまってんだろ。なあ、堤。」
まいったなあ、とばかりに頭をかく堤だった。
「じゃあ堤は俺と一緒に行動だ。いいな?」
「はい、お供します。」
「じゃあみんな、目標七時。遅くとも八時には舘内の『ハーツ&ソウルズ』に集合な。」
「了解。じゃあまた後で。」
「ういーっす。堤君、松山についてくと使われるぞ。適当にあしらえよ。」
松山が余計なことを言うな、と言う目で宍戸をにらみ、すぐに笑った。
「はいはい、じゃあ解散っと。」

会場の片づけが終わり、会場の管理室に挨拶をすると、中山は急いでトラックへと走った。
とりあえず昇降口に楽器を下ろすのだが、それを手伝う生徒がトラックで待っているからだ。
(それ以外の生徒はすでに副顧問の引率で電車で移動している。最寄り駅で解散するように指示を出してあった。)
手伝うのは基本的に家が学校に近い生徒たちだった。
トラックにつくと中山は驚いた。
手伝い生徒の中に瞳がいるではないか。
瞳の家は学校から比較的遠いので、電車組に入っているはずだった。
うれしそうな顔をする瞳に向かって中山は言い放った。
「瞳、お前何やってるんだ?お前は電車組だろう。リーダーが勝手なことしてどうする!」
必要以上にきつい物言いになっていると自分でも思った。この春からの一連の流れが意識の底にあったのかもしれない。
瞳の目が見る見る潤んでいった。そしてわっと泣き出した。
他の生徒はいつにない中山の剣幕に縮こまっている。
残っていたOB連中も口を挟めない。後に引けない中山は更に言葉を継いだ。
「お前はOBの連中と一緒に電車で帰れ。自分で希望した生徒指揮、リーダーだろうが。いい加減なことをやってるんじゃないっ。」
そのまま言うことを聞いてOB連中と帰るだろう、と思った中山だったが、瞳の反応は違っていた。
中山の腕をつかむなり叫んだのだ。
「ごめんなさいっ。私が間違ってましたぁ。もうこんなことは絶対しませんからぁ、ぐふっ、今日だけ・・・・・・
ぐすっ、今日だけは一緒に行かせてください。私を嫌いにならないで下さいぃ・・・・・・ひっく、お願いです、おねがいですから、
ぐふっ、嫌いにならないでぇ・・・・・・」
半狂乱、というのだろうか、あまりにも激しい、それは懇願だった。
我に返った緒方が、泣き叫ぶ瞳を優しく中山から引き離した。
「大丈夫、大丈夫よ、こんなことで誰もあなたのことを嫌いになったりしないから。今日はあたしたちと一緒に帰りましょう。
大丈夫、先生もあなたの気持ちは分かってくれるから。」
「いや、いやあ、先生と、先生と一緒に行くの。先生と一緒にぃ・・・・・・」
「瞳!」
緒方は瞳のほほを軽くはたき、そして優しく抱いた。
「大丈夫、大丈夫だから。先生はあなたのことを嫌いになったりしない。だから先生の言うことを聞いて。大丈夫よ。
私の言うことを信じて。本当よ、本当に誰もあなたのことを嫌いになったりしないわ。落ち着いて、落ち着いて。そう、落ち着いて。」
瞳が静かになった。緒方が中山に目で合図を送る。大丈夫、行ってください。後は任せて。早く!
中山は緒方に頷くと、残りの生徒に目で合図した。
生徒たちはトラックの荷台に乗り込む。助手席には誰も乗っていない。
瞳が一瞬また体を硬くして目を見開いた。間、髪をいれずに緒方が瞳に告げる。
「大丈夫、先生の横には誰もいません。助手席には誰も乗っていないわ。」
瞳が体から力を抜いた。

トラックが出発した後、緒方は瞳を解放した。
瞳の目の周りが真っ赤になっていた。
放心状態の瞳をそのままにはしておけない、と緒方は思った。
「少しお話をしましょう。瞳ちゃん、いいわね。」
瞳は黙って頷いた。
「池田君、私、瞳ちゃんと少しお話してから一緒に帰るから、みんなをお願い。」
「分かった。」
そういった池田の右手にはメモが添えられていて、そこには(後で連絡してくれ)と書かれていた。
緒方は池田に頷くと、瞳を近くのベンチへと連れて行った。
池田と若いOB連中が歩いていくのを見ながらバイバイと手を振る緒方だった。

「瞳ちゃん、もう大丈夫?」
瞳は今我に帰ったように頷くと、さっき起きたことを思い出したかのように顔を真っ赤にしてうつむいた。
その目からは再び涙が溢れ出したが、先ほどのような激しいそれとは違っていた。
数人とは言え仲間の部員と、これも一部とは言えOBの目の前で、激しい心のうちを吐露してしまったのだ。
これがこのまま何も無かったように収まるとは瞳も思わなかったのだろう。
「どうしよう、あたし・・・・・・みんなの前で、あんなこと・・・・・・もう、部活になんて出られない・・・・・・」
そこまで言うと、はっとしたように顔を上げた。
「部活に・・・・・・出られない・・・・・・部活に・・・・・・先生に会えない・・・・・・先生に・・・・・・会えないっ!いや、いやあああああああああ」
緒方はこの瞳の反応を予期していたかのように瞳を抱きしめた。瞳の叫び声が収まる。
「緒方先輩、あたし、どうしたら・・・・・・部活・・・・・・先生に会えない・・・・・・そんなのいやだ。あたし、いったい・・・・・・どうしたら・・・・・・」
緒方はゆっくりと言葉を紡いだ。
「瞳ちゃん、大丈夫。あなたが部活に出られないことなんて絶対に無いわ。さっきあそこにいたOBは大丈夫よ。
池田君がちゃんとしてくれるから。それにね、あなたの仲間たちにも、先生がきちんと話をしてくれているはずだから。
あなたは大切な仲間よ。そしてみんなあなたがどれだけ大切な存在か分かっているはずよ。そんなあなたを裏切るような
真似は絶対に誰もしないわ。だからあなたは明日からまたいつもどおりに部活に出ればいいの。
今日のあのことは忘れていいの。今までどおりでいいのよ。」
瞳がゆっくりと緒方のほうを向いた。
「本・・・当・・・に・・・?今までどおりに・・・・・・?」
緒方が頷く。
「本当よ。大丈夫。今までどおりでいいのよ。」
瞳が目を閉じて緒方に体をゆだねた。口元には笑みが見えた。
(先生、お願い、運搬係の生徒たちの指導、きちんとしておいて!)緒方は心の中で叫んだ。
そしてその心の叫びは中山に届いていたのだった。

楽器を昇降口に運び終えて、中山は運搬係の生徒たちを集合させた。
「みんな、お疲れ様。後は明日、全員で片付けることにしよう。あとひとつ、瞳のことだが、OBの緒方が話しを聞いてくれたことと思う。
ちょっと聞きたいんだが、瞳は何て言ってあそこに残っていたんだ?」
クラリネットの佐藤が答えた。
「先生に残るように言われたって言ってました。で、先生がいきなり怒ったんであたしたちもびっくりしちゃって・・・・・・」
「そうか。いや、驚かせて悪かったな。」
サックスの加藤が中山を擁護する。
「でも、先生はとくにリーダーたちには厳しいから、いつものことかな、位に思ったんですよね。」
「そうか・・・・・・うん、わかった。で、お前たち、どうする?」
どちらかというと斜に構えたところのあるトランペットの山口が聞き返した。
「どうするって、何をですか?」
「今日見たあの瞳の様子についてだ。あれは忘れろといって忘れられるものじゃないだろう?
でも、他の部員がそのことを知るようなことになれば、おそらく瞳は部には居づらくなるだろうな。」
「そう言うことですよね。でも、先生、根岸はどうしていきなりあんなふうに切れちゃったんでしょう。先生には分かってるんですか?」
「正直に言おう。分からないんだ。緒方が話を聞いてくれたはずだから、後で聞いておこうとは思うが。」
「そうですか・・・・・・。いずれにしても先生、僕らは他の子たちにこのことを話したりはしませんよ。なあ、みんな。」
他の二人の様子を見る限り、納得できたようには見えなかった。
「ただ、ひとつ約束してください。」
山口が中山をまっすぐ見据えて言った。
「なんだい?」
「何が起きたのかを、僕らには教えてください。いくらなんでも訳が分からないままこの件を胸にしまいこむなんてできません。」
他の二人もうなづいた。中山も納得した。
それはそうだろう。
無理に押さえつければ、この子達に不信感を植え付けることになる。
中山は言った。
「わかった。君の言うことはもっともだ。ただ、本人のプライバシーにあまり深くかかわることがあれば、
そこは伝えられないかもしれない。分かってもらえるかな?」
三人が頷いた。手伝いに来ていたOB連中は、先に会場を出ていたため、中山たちが何を話しているのか見当がつかない様子だった。
しかしながらその雰囲気から、自分たちが口を挟むようなことではないと理解していた。
大丈夫、これでとりあえずは大丈夫だ。瞳がいつもどおりの様子を保つことができれば、だが・・・・・・

  手伝いに来ていたOBの一人にレンタカーのトラックの返却をまかせ、中山は職員室に向かった。
応接コーナーのソファに座る。緒方からの連絡を待つしかない。彼はそうつぶやくと、携帯電話を机の上に置いた。

「お話、続けてもいい?大丈夫?」
緒方は瞳の様子が落ち着いたのを確かめるようにたずねた。
「はい。」
返事に力は無いが、瞳も落ち着きは取り戻したようだった。
「いきなり先生に怒鳴りつけられてびっくりしたのは分かるわ。ふだんあんなやり方をする先生ではないものね。
でも、あなたがあれだけ・・・・・・そう、切れちゃったのには、たぶん先生やみんなもね、逆に驚いたと思うわ。」
瞳が力なく頷いた。
「でもね、あたしには分かる気がするの。単刀直入に言うわね。あなた、中山先生のことが好きなんじゃないかしら?
それも、顧問の先生として、とかじゃなくって。これはあたしの想像かもしれないけど、あなた、中山先生に恋してるんじゃない?」
瞳の目が見開かれた。次の瞬間、顔が真っ赤になり、また涙があふれてきた。
「いやだ・・・・・・先生に・・・・・・まだ・・・・・・そんな・・・・・・いや、まだ、まだだめなの・・・・・・今はまだ先生には・・・・・・」
緒方はやはりこの瞳の反応を予期していた。瞳の肩をやさしく抱き寄せ、優しく語りかけた。
「やっぱりそうなのね。でも大丈夫よ。先生はまだはっきりと気づいてはいない。周りのみんなもまだ知らない。
繰り返して言うわ。まだ大丈夫。あなたがその気持ちを胸にしまって、今までどおりのあなたでいられさえすれば、
最後まであなたは先生と一緒にいられる。あなたがそうしている限り、私もこのことは忘れる。ただね、ひとつお願いがあるの。」
「お願い?」
「そう、お願い。瞳ちゃん、このことに関して悩むことがあれば、必ず私に相談して欲しいの。一人でしまいこんで
自分を苦しめるようなことが無いようにしてほしい。できるかしら?」
口を閉ざし、考え込む瞳であった。緒方は焦ることなく、待った。
五分も過ぎただろうか、瞳がにっこり笑って口を開いた。
「わかりました。」
緒方は笑顔でその言葉を受け止めた。
これでしばらくは大丈夫だろう。私がこの子を監視していればいい。
卒業までこの子が暴走しないように、きちんと見ていてあげよう。
「ありがとう。じゃあ今日は帰りましょう。明日からまた今までどおりよ。大丈夫ね?」
「はい、大丈夫です。ありがとうございました。」
そう言ってにっこり笑った瞳を見つめ、緒方ははっとした。
この子、目が笑ってない・・・・・・
笑っていないどころか、底が見えない・・・・・・

  舘内の駅に向かう途中、瞳は一見元通りに落ち着いているように見えた。
緒方もさっきのあの目は気のせいだったかと思うくらいだった。
鷲見の駅に到着し、緒方は瞳に「家まで一緒に行こうか?」と聞いたが、
瞳は「大丈夫、一人で帰れます。」と断った。
そのとき緒方はまたにっこり笑うその瞳の目だけが笑っていないことに気づき、
自分にこの子の監視役が務まるだろうかと、不安になるのだった。

緒方は瞳を見送ると、携帯電話を取り出し、中山に連絡を取った。

「おう、オガちゃんか。待ってたぞ。今どこだ?」
「鷲見駅です。たった今瞳ちゃんを見送ったところです。」
「瞳は落ち着いたか?」
「はい。とりあえずは大丈夫だと思います。運搬係の子達は大丈夫ですか?」
「ああ。こっちもとりあえず、だがな。ただ、山口の奴に約束させられたよ。
何があったのか教えて欲しい、ってな。」
「すべてを、ですか?」
「いや、瞳のプライバシーにあまりにも深く入り込むようなことは伝えられない、
とは言っておいたが。ま、詳しく聞かせてくれ。」
「先生。」
「ん?」
「電話じゃなんですから、出てこられませんか?駅まで。」
「あ、ああ。かまわないよ。どうせまた舘内に戻んなきゃだし。それよりお前、
待たせちゃうけど、いいのか?」
「どの位でこられます?」
「バスしだいだけど、早ければ十五分くらいだな。」
「わかりました。じゃあ、駅ビルの一階のマリーズコーヒーで待ってます。」
「わかった。急いでいくよ。」
中山は急いで支度をし、職員室の戸締りをして警備会社に電話し、施錠をすると学校を出た。

中山がマリーズコーヒーに到着したのは、緒方からの電話を切ってからちょうど二十分後だった。
店に入ると、中山に気づいた緒方が奥の席から手を振ってきた。
「すまんな、オガちゃん。早速だが、詳しい話を聞かせてくれるか。」
「はい。やっぱりあたしの予感が当たったって感じですね。」
「恋する乙女の、ってやつか?」
「まさにそれです。あの子、先生に完全に恋しちゃってます。ええ、先生としてじゃなくて。
一人の男性として、です。」
「思春期にありがちな擬似恋愛的なものじゃないのか?」
「そう思いたいところですけど、残念ながらあの子、かなり本気です。先生にはこれからかなりうまく
指導してもらわないとって感じですね。」
「まいったなあ。そんなこと部内で表明しちゃったら、あいつ、部にいられなくなっちまうだろう。
そのことは話したのか?」
「ええ。明日から今までどおりの瞳ちゃんに戻れるから大丈夫って言ってました。
私もそう言う目であの子を監視していかなきゃって思ったんです。ですけど・・・・・・」
「けど、何だ?」
「あの子の目、笑ってないんですよ。それどころか底なしに冷たい感じで。
わたしにもすべては話してくれてないんじゃないかな。気になったのは、
あの子『今はだめ、今はまだだめ』って。いつ、何をしようとしているのか、不安です。」
「オガちゃんの気にしすぎじゃないのか?」
「だといいんですけど・・・・・・」
「担任と一度話して、場合によっては親とも話したほうがいいかも知れんな。」
「そうですね。でも、親御さんとお話をするときは、慎重にしたほうがいいですよ。
中学生くらいだと、親と先生が話すのを異常に嫌がる子とかいますから。」
「そうだな。気をつけよう。」
「あと、先生。先生は大丈夫ですよね?」
何を言ってるんだろう、オガちゃんは。中山が怪訝そうな顔つきで問いかけると、
「先生の瞳ちゃんに対する気持ち、いち生徒に対するものに過ぎないんですよね?」
中山はコーヒーを吹き出しそうになった。
「な、何を言ってるんだオガちゃん。教師が生徒に何を思うって?」
緒方はコーヒーを一口飲むと、すまして言った。
「先生が瞳ちゃんのことを特別扱いしてるんじゃないか、って思ってる子がいますよ。」
中山は驚いた。自分にはそんなつもりはまったく無かったのだが。どういうことだ?
「直接先生には言えないようなこともOBの私たちの耳には入ってくるじゃないですか。
内容によってはその都度先生にお伝えしてますけど、たいていは私たちレベルでとめちゃってますから。
その子にもちゃんと言っておきました。瞳ちゃんが中学生レベルをはるかに凌駕したオーボエ奏者であることは
みんな分かってますからね。それに、ほとんどの場合、リーダーとしての責務を果たしていますから、
特別扱い云々もそうじゃないんだよってことでたいていの子は納得します。
でも、女の子のそう言う感覚って、理屈じゃないんですよ。本能的に察するんです。
男の人にはわかりづらいとは思いますけど。」
中山にはその辺がやはりあまりよく分かっていなかった。
そう考えると、ここ二、三年、OB連中がかなりうまくやってくれていたようだ。中山は考え込んでしまった。

「山口なんかには何て話そう。」
「そのまま伝えちゃっていいんじゃないですか?ただし、本気で好き云々はふせて。
思春期にありがちな初恋物語、見たいな感じで。緒方がちゃんと話してくれたから、もう大丈夫、
って言っちゃっていいと思います。変に隠すとかえって詮索されちゃいますよ。特に山口くんなんて、
ただでさえ斜に構えたところあるから。ごまかすと逆効果です。」
「そうだな。そうしよう。いや、オガちゃん、ありがとう。しばらく瞳のことは頼むよ。
俺はできるだけ意識せずに普通に接するようにしよう。」
「それでいいと思います。OB連にはメンバー選んで情報は流しときますから。」
「わかった。じゃあ、俺は行くよ。人を待たせてるからな。明日は来られるのか?」
「はい。大丈夫です。」
「そうか。じゃあな。」
「はい。さようなら。」

中山が時計を見ると、十九時を回ったところだった。
店に着くのは十九時半を過ぎるな、電話を入れとこう、と、松山の電話番号を探し、電話した。

緒方はコーヒーカップを両手で包むようにしたまま動かなかった。
先生は事の重要性を分かっているかしら。
あの子に対して、生徒としてではなく、女性として魅力を感じていること、分かっているのかしら。
そのあたりもう少しちゃんと話しておくべきだったのかなあ。
でも大丈夫よね、今までどおりの瞳ちゃんでいてくれれば、何も起きることは無いよね。

かなりしっかりしてはいるが、いかんせん緒方はまだ若すぎた。
希望的観測でこの件を終わらせてしまおうとしていた。
いや、それなりに経験豊富な人間であっても、
瞳の目の奥に潜んでゆっくりゆっくり醸成されている狂気には気づけなかったかもしれない。
今日の思いも寄らない感情の爆発。それはひとつの始まりに過ぎなかったのだった。

池田君が気にしてる。電話しなきゃ。
緒方は携帯を手に取ると、池田に連絡を取った。

「もうやめて!何が気に入らないの?何でも言うこと聞いてあげるから!お願い、やめて頂戴!」
「うるせえっ、このババアっ!人のやることにいちいち口出すんじゃねえよ!どけコラ。」
娘に足蹴にされ、母親はうめくとその場にうずくまった。
痛いのと情けないので涙が止まらない。
どうしてこうなってしまったのか。自分の何がいけなかったのか、考えても考えても結論が出ない。
「入ってくるんじゃねえぞ!」
そう言い放って娘は自分の部屋のドアを乱暴に閉めた。
残された母は立ち上がる気力も無く、ただ涙を流していた。
焦点の合わない目の先には、割れた花瓶、散乱した食器、ひっくり返ったダイニングチェア、
傷ついたダイニングテーブルがそこで何があったのかを静かに語っていた。

松山、宍戸、堤と遅くまで飲み、神名川県の吹奏楽の明日について大いに語った中山は、
帰りの電車で、どうせ終点までだからと眠り込んでいた。
彼は夢を見ていた。
ただいま、と家に帰ると、お帰り、と自分を迎えてくれる女性がいる。
振り返った女性の顔は、瞳のそれだった。
「終点ですよ、お客さん、起きてください。」
彼は車掌に揺り起こされた。寝ぼけながらふらふらと電車を降りる中山は、
さっき見た夢のことをすでに忘れていたのだった。

続きはこちら