陸橋
「もう帰らないか?」
明は答えなかった。そんな気分じゃない。家になんか帰れるものか・・・
これから夏を迎えようとする彼らの町、清水市の郊外、狐ヶ崎の陸橋に二人は立っていた。
心地よい風が彼らの頬をなぜた。
二人は手すりに寄りかかり、遠くの町明かりを見つめていた。
「もう九時になるぜ、明。」
「うるさいな!帰りたきゃ一人で先に帰れ!」
明は純男の言葉につい声を荒げてしまった。
「わかったよ・・・」
純男はそういうと手すりに背をもたれた。
明はまだ町明かりを見つめている。
遠くから踏み切りの警報機の音がかすかに聞こえてくる。
次第に近づいてくる貨物列車の騒々しい音に、明はなぜかしら気持ちが高ぶるのを感じた。
列車が陸橋の真下を通り、喧騒が最大となって彼の心はかえって落ち着くのだった。
列車の音が闇に吸い込まれ、残ったテールランプも次第に小さくなり、点となって消えた。
明がつぶやいた。
「あそこまで行こうかな・・・」
純男が聞き返す。
「あそこって、あの明かりの下か?」
「そうさ。何かがありそうだもの。」
「何度も言うけど、もう遅い。やめておけよ。」
「またそれか。ふん、お前さんまでついて来いとはいいやしないよ。」
「聞き分けのない野郎だな。じゃあ一人で行ってきてみろよ。」
「ああ、行ってやらあ。ふん。僕ちゃんは先に帰ってさっさと寝てな!」
「・・・・待ってるよ。」
「え?」
「待ってる・・・・・・。」
少しの間純男の顔を見つめた後、明は夜の喧騒に向かって歩き出した。
振り返らなかった。
やがて夜の闇にその姿を隠した。
純男は一人残された陸橋に立ち、相変わらず手すりにもたれかかっていた。
北を見上げると、山の稜線がはっきりと見て取れた。
宙に浮く赤い灯は従って山の中腹の電波中継所だ。月がもうすぐ出るんだな。あの動く明かりは山腹を走る車だろう。UFOならいいのに。空がやけにうすぼんやりしている。星があまり見えないな。頭がぼけたかな。
それはしかし、小規模ながら工場用地を抱える市の中心からさほど離れていない空には当然なことであった。
ポケットにタバコが入っていた。
一本取り出して眺めてみる。
ぼんやりタバコを眺め回している一少年をどう思ったものか、一人の老警官が近寄ってきた。
「君、こんなに夜遅く、こんなところで一人で何をしているのかね?」
「友達を・・・待っているんです。」
「ふむ、そうか。それにしても制服にタバコはよくない。似合わないね。」
「どうでもいい事じゃありませんか。」
「ふむ、どうでもいい事だ。けれど、そのどうでもいい事を世の中はよしとしない。こちらに渡してくれるかね。」
純男はくるりと振り向くと、タバコの紙をぐるりとはずした。
刻まれたタバコの葉は次第に広がり、線路の上へと降りていった。
警官は表情を変えずにその様を眺めていた。
純男は次から次へとタバコをばら撒いていった。警官は肩をすくめた。
「早く家に帰りなさい。」
そう一言言うと、どこへとも無く去っていった。
いつの間にか月が出て、あたりが幾分明るく照らされていた。
ふと気付くと、一人の少女が横に立って遠くの町明かりを見つめているのだった。
「君は誰?どうしてここにいるの?」
純男は口をついて出たその言葉に自分でも驚いた。
少女が振り向いた。ショートカットでマニッシュな雰囲気を持っていたが、美しい目鼻立ちをしていた。
こざっぱりした身なりで、年は16、7というところか。
純男の目はしかしその肌の色に注がれていた。
該当と月明かりのせいもあるとは思うが、その透き通らんばかりの白さは、淡い光を発しているようにさえ見えた。
少女が口を開く。
「わたしは・・・・私よ。私以外の何者でもないわ。ここにいたいからここにいる。それ以上の理由が必要?」
美しい声ではあったが、突き放した調子だった。
しかし純男は彼女に惹かれる自分を感じた。
「名前を聞かせてくれる?」
少女は少しの間、純男の目を見つめて、それから言った。
「白石優里亜。」
いい名前だと純男は思った。そしてまた尋ねた。
「どこの学校?」
少女は再び町明かりに視線を戻して言った。
「学校・・・・学校って何?」
「学校を知らないんだ。きっと君はそう・・・・自由なんだね。」
「私にとって自由は宇宙に等しい存在なのだわ。」
「それほど広いってこと?」
「得ること能わざるもの。未知の存在。」
純男は無性にこの少女のことをもっともっと知りたい、と思った。
「僕は君の良い友人にはなれないだろうか。」
純男はその真剣な目を彼女に向けた。
「私は・・・・」
彼女は口を動かし続けるのだが、もうその声は純男には届かなかった。
純男が少女に近づこうとした時、彼女の姿はすっと消えてしまった。
「優里亜さん?」
純男はしばらくそこに立ちつくしたが、彼女を探そうとはしなかった。
無駄だとわかっていたから。
「まあ、いいさ。」
その時、暗闇の中からぼろぼろになった明が現れた。
足取りもふらついている。
「お帰り、明。」
純男はそういっただけで、依然として手すりにもたれかかっていた。
明もふらつく足取りでようやく純男の横で手すりにもたれかかった。
「どうだった?」
「見ての通りさ。」
「そうか。」
「何も聞かないのか?」
「何を聞いて欲しい?」
「だから・・・・・・・・・」
明は何かに気付いたような様子で、言葉を切った。
しばらく二人は黙っていた。
先に明がつぶやく。
「お前もか・・・・」
純男は返事をしなかった。
「帰ろう。」どちらからともなく肩に手をかけあって夜の陸橋から闇の中へと消えていった。
「どうでもいいことさ。なあ・・・」
残された陸橋がそうつぶやいたようだった。
柳の枝をそよがせて風が通り過ぎた。